2022年2月12日
【次週主日礼拝】
2月20(日)降誕節第9主日説教:本間一秀牧師
説教題「赦しから救いへ」列王下4:18-37マルコ2:1-12
【お知らせ】
【祈り】
【関東教区お祈りカレンダー】「互いのために」(ヤコブ5:16)
東所沢、べウラ、狭山の各教会、十日町雪堀キャンプを覚えて。
【先週の集会報告】
先週集会統計 | ||
礼拝出席 | C S | |
男・女・計 |
1・2・3 |
休 会 |
献 金 | 2,000円 |
聖研祈祷会:休会 |
CS保護者: |
【礼拝他について】
【週報等の発送について】
【説教要旨】
十字架の時、弟子たちはイエスを見捨てて逃げ出した。私たちも逃げ出すだろう。私たちは良い地どころではなく、岩地や茨の地なのだ。しかし、イエスは言われる「救いはそこから始まる。自分が見ても認めず、聞いても悟らない存在であることを知り、自分には救われる価値はないことを知る。それを知る時、人は自分中心でなく、神を求める様になる」。自分が石地や茨の地であることを知る。洗礼を受けても、罪を犯し続ける存在であることを知る。そのような私たちにも、神は言葉を語り続けて下さる、種を蒔き続けて下さる。それでもわからないから、十字架について死んで下さった。その十字架を通して、弟子たちの心に蒔かれ続けていた福音の種が芽を出した。福音とは十字架を通して始めてわかる言葉なのである。
自分達もかつては、道端であり、石地であり、茨の地であった。そのような者が、教会から離れ、み言葉に聞かなくなる時もある。しかし、また教会に戻されることもある。何年も何十年も、教会から離れていた人が、一つの出来事を契機に、教会に戻る出来事が起こっている。道端の固い地も、耕されれば良い地になる。石地も石が取り除かれれば、豊かな地に変わる。茨の地も、茨の除去を繰り返せば、農地として、豊かな実を生む。主イエスは私たちが御言葉から離れていた時も、神はたゆまず私たちを気にかけ、私たちの畑を耕していて下さる。だから、私たちは、今日ここにいるのである。私たちに与えられる病気や、災いは、私たちを耕す、神の鍬、神の鋤と理解したい。人は十字架を通らないと、福音の言葉を理解できない。私たちは、十字架でしか語り得ない言葉を語り続け、聞き続けたい。聞く耳を持ちたいものである。