2022年2月5日
【礼拝後の予定】
【次週主日礼拝】
【お知らせ】。
【祈り】
【関東教区お祈りカレンダー】「互いのために」(ヤコブ5:16)
三芳、所沢武蔵野、所沢みくにの各教会、「信教の自由を守る日」(2月11日)を覚えて。
【先週の集会報告】
先週集会統計 | ||
礼拝出席 | C S | |
男・女・計 |
2・2・4 |
休 会 |
献 金 | 3,000円 |
聖研祈祷会:休会 |
CS保護者: |
【礼拝他について】
【週報等の発送について】
【説教要旨】
「一粒の麦が死ななければ」、麦を種として地に蒔けば芽が生え、育ち、やがて多くの実を結ぶ。麦を蒔かずに食べれば、後には何も残さない。主イエスが王として立っても、それは一時的なもので終わる。しかし、十字架で死ぬことによって、種となることにより、多くの命が生まれている。私達は麦として生きるのか、種として生きるのか、がここで問われている。麦として生きるとは、人生の完成を目指して、自分の為に生きることである。多くの人がその道を選ぶだろう。しかし、その人生は死んだ後に何も残さない。もう一つの人生は、麦として死に、種として生きる人生である。あまり一般的でない選択である。私達主にある者達は、この道を選択する。そこに真理があるからである。イエスは言われる「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」(ヨハネ12:25)。自分の幸福だけを求め続けても人は幸せになれない。私達もある時、自分だけの為に生きる人生の虚しさに気づいた。本当の幸せ、人生の喜びは他者との交わりの中から生まれる。他者との交わりに生きるとは自己を捨てることだ。種が自らを無くし、その事を通して多くの命を生んで行く、そのような生き方だ。イエスが来られた、イエスの言葉が語られた。種は蒔かれた。その種は、成長して、多くの実を結んだ。私たちも、その実の一つだ。私たちが、実のままでいれば、それは一つのままだ。しかし、私たちが実である事を放棄し、種になれば、それは30倍、60倍の新しい実を生む。種として生きる、それは具体的には何かを自分の生活の中で考えるように、招かれている。「良い種」でありたい。