2022年2月19日
【次週主日礼拝】
2月27(日)降誕節第10主日
説教:本間一秀牧師 説教題「嵐の中にあっても恐れるな」
ヨナ1:1-2:1マルコ4:35-41
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【関東教区お祈りカレンダー】「互いのために」(ヤコブ5:16)
【先週の集会報告】
先週集会統計 | ||
礼拝出席 | C S | |
男・女・計 |
1・2・3 |
休 会 |
献 金 | 2,000円 |
聖研祈祷会:休会 |
CS保護者: |
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【説教要旨】
人は病を得た時「いやし」を求める。しかし、主イエスは病のいやしに先立って、罪の赦しを宣言された。何故か。「罪の赦し」と「病のいやし」はどちらが難しいのか、あるいはどちらが大切なのか。私たちが人生において求めることは、自分の力ではどうしようもない病気や苦難が取り除かれることである。失業すれば、生活が困窮する。子供が不登校になれば、家庭は荒れる。元気な人が病気で倒れれば、生きる力さえなくなる。生きることは苦難の連続である。その現実の中で、私たちは現実を打ち破る力、病をいやし、困難を取り除いてくれる力を求めている。だから、シモンの家には「いやし」を求める人々があふれ、教会にもいやしを求めて人が訪ねて来る。私たちが求めるのは、目に見えない罪の赦しではなく、目に見える病や不幸のいやしである。 しかし、主イエスは中風の人に、まず罪の赦しを語られた。当時のユダヤ社会では、病気は「罪を犯した人間に対する神の罰だ」と考えられていた。これはユダヤ教だけではなく、多くの宗教にある「因果応報」の考え方である。イエスはこれをきっぱりと否定される。「あなたの罪は赦された」、あなたは神の怒りの下にあるから病気になったのではない。父なる神はそのような方ではない。神はあなたを愛しておられる」と言われたのである。主イエスは因果応報を明らかに否定された。主イエスは自らが痛むことにより、病む者たちの痛みを共有された。「あなたの罪は赦された」という宣言は、「その罪は私が代わりに引き受ける」という決意のもとで為されているのである。「“神の下さるものに悪いものはない”、私はベッドの上で幾度もそうつぶやいた。すると癌が神からのすばらしい贈り物に変わっていた」(三浦綾子「泉への招待」)。この信仰こそ聖書の信仰である。罪赦されて、いやされて、救いへと導かれるのである。共に居ます主イエスを信じて歩みたい。