2022年2月26日
【次週主日礼拝】
3月6日(日)受難節第1主日
説教:本間一秀牧師 説教題「試練に勝つ」
エレミヤ31:27-34 マルコ1:12-15
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【先週の集会報告】
先週集会統計 | ||
礼拝出席 | C S | |
男・女・計 |
1・2・3 |
休 会 |
献 金 | 2,000円 |
聖研祈祷会:休会 |
CS保護者: |
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【受難節】
【説教要旨】
今日の聖書マルコ4章の物語は、信仰が揺らいだ時には、主イエスが起きられるまで、叫び続けよと教えている。主イエスは眠っておられるが、求めれば起きて下さり、「黙れ、静まれ」と嵐を静めて下さるのである。その後で、私たちは叱られるかもしれない。しかし、その叱りを通して、私たちは成長していく。主イエスの弟子たちも、主に従う者として、信仰と信頼にあふれて舟に乗り込んだが、一旦嵐にあうと、今まで信じていたものはどこかに飛び去り、慌てふためく。私たちは苦難に会うと信仰をなくしてしまう存在なのである。嵐の中で頭にあるのはおぼれる、死ぬ、その恐怖だけである。人の常である。私たちの人生は、荒海を航海する舟のようである。海の上を航海するから、常に不安定である。船板一枚の下には、底知れない闇がある。嵐が来れば、木の葉のように翻弄される。しかし、私たちの舟には主イエスが乗っておられる。眠っておられるかもしれないが、起こせば起きて下さり、嵐を静めて下さる。「風と波を叱り、静める力をお持ちの方が、私たちと共におられる」、その事を私たちは信じることが許されている。この物語の主題は、「イエスは神の子だから、嵐を静める奇跡が出来る」ということではない。迫害の嵐の中で、初代教会の人々が、「何故怖がるのか、私が共にいるではないか、私を信じて静まりなさい」というイエスの声を聞き、静まって、迫害を乗り越えることができたことである。嵐や波が静まったことではなく。初代教会の人々の「心の波が静まった」ことにこそ、大きな意味がある。「地震でも津波でも嵐でも、どんな災難の時も、心が平静ならば逃れる道が見えてくる」、それを知ることは、私たちにとって何ものにも勝る祝福であることを覚えたい。